想像力と倫理についての三者三様

mojimojiさんx0000000000さんそれぞれからお返事をいただきました。
うーん、なんだか三者三様に語っているレイヤーが違うような印象。
まずmojimojiさんのご意見ですが、mojimojiさんは「切断」や「想像力」というとき、あまりにもall or nothingで捉えておられるように思います。
つまり、「0か1か」という文脈で常に語っているように見えます。
確かに「それ」を全く知りもしなければ(=0)、そこに想像力が働く余地は極めて少ない、といわざるを得ません。その文脈で、「0を1にする」という意味においては、「呼びかけ」はどういう形であれ「成功」といえるでしょう。
しかしながら、1が10になることもあれば、0.1になることもあるのです。
認知させればそれでよいというのは、例えば選挙の際の「連呼」は常に成功だ、というのと似ています。
一旦認知のきっかけができた後は、いかにそこに「注意」「関心」「想像力」といった「リソース」を注いでもらえるか、について考えねばなりません。それらは無限ではない。有限の資源なのです。
私のいうところの「切断」とは、1を0にするというよりは0.1、0.01、あるいは「0に近づける」行為であって、完全に0にする「切断」が不可能であっても成立するのです。
例えば、G★RDIASにおいてkanjinaiさんはいくつかの箇所でこのように書いています。

あと、gordiasでは、煽りっぽい文体のコメントは削除対象になります。keya1984さんのこのスレでの書き込みはすでに削除対象です。たとえば、「どこまで甘えたことを言い続ける気かね。」というような言葉遣いはアウト。削除ガイドラインはこちらが恣意的に決めます。この点についての議論は受け付けません。ごめんなさいね。(^_^)

以降、日本語が論理的で、論点明確な投稿にのみ応答することにしたいと思います。そのほかは、スルーしますね。悪く思わないでくださいね(^^)。

上記のような体験をしてから、私は、ネットには「他者」との出会いを探さないようになった。

生命と倫理について思索することを生業にするkanjinaiさんですら、ある対象については「想像力」をカットしようとしています。もちろん対象を「知って」いる以上は0ではないと思いますが、同様のアプローチをしている限りkanjinaiさんの「想像力」がそちらにより多く振り向けられることは考えにくい。
0が0でなくなる、というのは途轍もない前進です。ただ、10や100の想像力が割かれるなかで、0.1や0.01では「問題の解決」に向かうとは言いがたいのではないか、というのが私の感想です。


また、x0000000000さんのご意見はまた少し位相が異なるような気がします。
x0000000000さんは「なぜ想像力が倫理の根源ではダメか」とおっしゃっていますが、私は「ダメかどうか」とか「そうあるべき」を論じているのではなく、「現時点で機能しているメカニズム」について考えているのです。
「べき論」でいえば、x0000000000さんの議論には基本的には賛成です。
イデア的な究極目標としては、社会は「全員の最大幸福」を目指さなければならない。しかし、ただイデアをぶち上げればそれ近づけるかというとそれとこれとは別の話。
目的地にたどり着くにはまず目的地を知ること。そしてもう一つ「今いる地点」についてもよく知る必要があるのです。でなければ決して道筋は見えない。
文科省や再生会議がいくら美辞麗句を計画に盛り込んでも、教育現場のメカニズムに基づいた方法がなければ近づくどころか混乱を招くだけです。
これは「現状追認」ではなくて、「現状を把握せずして現状の打開」なし、ということなのです。