Web2.0の逆説

Web2.0は高速道路というよりレーシングコース。つまり、レーサーが走ってこそ、という話。

ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)

この辺りを読むと、今頃そういったことをごにょごにょ言い始めているような印象を受ける。
平野氏がいうように、確かに「道具」の進歩は人間の「対応」を変える。が、まあそれだけといえばそれだけのことだ。人間の本質というのがそもそも何を指すのかよく分からないが、「本質」を変えずともいくらでも「対応」は変わりうる。
狩猟時代だろうがWeb時代だろうが、人間という肉体は食欲と性欲と集団内のポジショニングにず〜〜〜っと汲々として生きてきたし、今後も基本的にはそうだろう。まあこれが本質かどうかは知らない。ただここでのお二方は「情報を食って」あるいは「情報で食って」生きている人たちであり、情報が人間を変える可能性を信じたいのはよくわかる。
ではWeb2.0という状況に人間はまずどう「対応」するのか。

実は、梅田氏らが期待するものとは多分逆のことが起こる。
人間は飽くまで有限の肉体だ。いくら情報や選択肢が増えても、瞬時に処理することもできなければ、無限の時間をかけることもできない。
3つの選択肢ならばそれぞれを十分吟味できても、300から最善の選択をせよといわれれば半ば思考停止に陥り、印象に頼ってしまう。
情報の吟味や選択には、その数が多ければ多いほどコストがかかるという当たり前の現実。
つまり道具の進歩たるWeb2.0」は、人間の対応をより表面的な印象に依存するように変えてしまうだろう。
多分これは両氏の理想ではないとは思う。
梅田氏のキーワードの一つに「集団知」があるが、この状況はむしろその成立条件の真逆だ

結局Web2.0というレーシングコースを走るには、まずレーサーを養成せねばならない、ということになる。
そしてそれはWeb2.0ゆえに、既にWebではできないのではないか。

つまりWeb2.0を機能させたければ、ますますリアルを重視しなくてはならないという逆説的状況に陥っているわけだ。
梅田氏やその界隈も恐らくそのことにうすうす気づいてはいるのだろうが、特に日本においては三手ほど遅かったのではないかな。
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