科学は必ずしも面白くないし、ロマンティックでもない

「水からの伝言」を信じないでください
水からの伝言に対抗するには

というといろいろ語弊があるんでしょうけど。
いや、面白いですよ、私にとっては。非常に「深い」面白さです。しかしその「深さ」ゆえに、ちゃんと味わうのはそう簡単でないと思うんです。
言ってみれば、発酵食品の旨さといいますか。「酒」を始めとして、「納豆」、さらに「くさや」「鮒鮨」といろいろあります。好きな人には堪らないウマさですが、このウマさ、すぐに分かるものではない。このウマさには、「臭み」が伴うからです。しかし「旨み」と「臭み」は一体であり、ある意味で「臭み」こそが「旨み」でもあるわけです。当然ながら、一生嫌いな人もいます。それはそれで仕方がない。
「科学の面白さ」にもそれに近いものがあります。
小学校や中学校でちょちょいと学んだからって、恐らく本当の「深さ」を伝えるのは難しい。大学院で数年間実験・研究三昧したって必ずしも分かるわけではないし、逆に嫌いになる人だっているでしょう。
もちろん、できる限りその「面白さ」を伝えようとするべきだとは思います。
しかしながら、単なる「面白さ」の土俵で戦っても科学の勝ち目は薄いと思います。
「面白さ」の土俵では、科学はくさやであり、ニセ科学はポテチだからです。
科学の主目的は「面白さ」ではありません*1。それに対して、ニセ科学はまさに「面白さ」を目的とすることができます。
いかに耳に心地よく面白い「仮説」でも、実験的理論的に否定されれば「科学」はそれを捨てねばなりません。しかし、「ニセ科学」はそれを躊躇なく拾うことができます。
進化論がいい例ですが、「生きている者が適者」とか「中立進化」だとかいうより、「最も優れた者が生き残る」だとか「人間は進化の頂点」とか言った方が分かりやすいし面白いですよね*2
「面白さ」では科学はニセ科学に勝てません。
では科学のアドバンテージは何かと考えると、「重要性」や「実用性」しかありません。夢のない話のようですが、「法律」や「金融」と同じです。科学的思考は現代社会を生きていくのに役に立つ、知らないと損をする、という動機付けが必要となるでしょう。ただ、現実の社会がそうなっていなかったら説得力は無くなりますけどね。
そうやって学ぶうちにいくらかの割合で真の「面白さ」に気づく人はいるでしょうし、それがよい職業だと思えば科学者になる人もいるでしょう。
こういった理由で、科学について「面白さ」ばかりで動員をかけようとするやり方にはあまり賛成できません。
ちなみに件の「水伝」についてですが。これはまあ、信じてしまっている人を他人が「科学的な言葉」で説得するのはかなり困難だと思います。
すべてのニセ科学に対応するのは無理だと思いますが、「水伝」のように教師が教えるというレベルまで来てしまったものには、国が動く必要があるんじゃないでしょうか。教育が、科学的思考が重要だと思うなら、こういったものが教材として不適切である旨を公にきちんと通達する必要があると思います*3
全般にいえることですが、抽象論でガス抜きしていても教育は変わりません。一つ一つ、何を教えて何を教えるべきでないか、どう教えるべきでどう教えるべきでないか、何が必要で何が不必要か、何が可能で何が不可能か、地道な作業をしていくしかないと思います。
参照:科学と科学的知識の利用に関する世界宣言
関連:教育基本法改正の教育言説の問題
高橋哲哉氏意見陳述(教基特名古屋地方公聴会)
【教基法改正】論議は深まっていない
いわゆる「ゆとり教育」で安直なスローガン先行教育運営のくだらなさが明らかになったと思ったらまたコレですからねぇ。どうもこうも・・。

*1:科学者の動機が「面白さ」である、ということはありえますが。

*2:もちろん後者二つはニセ科学です。

*3:しかしマイナスイオンの例もあり、経済が科学的根拠に優先する可能性もあり。