日本語は亡びぬ、何度でもよみがえるさ!

水村さんの本はまだ読んでないんですけど、最近他にいろいろ読んだので枕に使わせてもらいますね。
ジャーゴンってものがあります。2ちゃん語やJK語があります。
日本には標準語という共通語があるのに、方言がなくならないばかりか、なぜ新たにこんなローカル語が生まれるのでしょうか?
共通語とか標準言語ってのは多様な人たちが多様な状況で使うものです。科学論文なんか非常に顕著ですが、そういう言語はどんどん最大公約数化し、単純化されていきます。微妙なニュアンスなんか使っても伝わらないリスクが高いわけで、明確でシンプルな表現だけが残っていくことになります。
言い方を変えると、英語をはじめ、標準語というものは「形式知」を伝達するための「ツール」となる、ということです。
逆にいうと、「暗黙知」や「ニュアンス」はそぎ落とされていくのです。しかし、いくら標準語が単純化しても現場そのものが単純化するわけではない。
だからこそ、「ローカル語」が生まれるのです。
方言は確かにある程度失われていくでしょう。しかしそれは標準語があるからというより、そのローカル語があらわす暗黙知、現場ニュアンスそのものが失われたからではないでしょうか。その地方が独自の文化や気風を残しているなら、その現実と結びついた方言もまた生き残ります。
逆に標準ツールではあらわせない新たな文化や現実が生まれれば、新たなローカル語が生まれます。
フラット化の極致であるネットにおいてすらジャーゴンが生まれるんです。英語がいかに標準化しようと、それだけで世界が埋め尽くされることはありえません。
むしろ、文学の危機にあるのは英語です。標準ツール化され、微妙なニュアンスはどんどん失われていきます。NHKアナの標準語だけで小説を書けといわれたら困りますよね。
仕事において、形式知を伝達するためのツールとしての英語はどんどん重要になります。出来る限り勉強はすべきです。ただ、文学的な英語までマスターする必要はないでしょう。シンプルに、過不足なく伝える英語が大事になります。
一方、日本語を護るにはどうすればいいか?
日本語だけを見ていてはダメなのです。
日本語と堅く結びついた現実、ニュアンス、センスを高めること、それがローカル語としての日本語の価値を決めるのです。ジャーゴンの価値は、そのフィールドがアツイか否かで決まるってことです。
確かに古い日本文学のセンスは素晴らしいし、それをそのまま残していくことも大事でしょう。でもそれこそむしろ一部の芸術家の仕事になるのではないかな。
今の人のすべきことは、そういうセンスなりニュアンスなりを今の現実と結びついた形で高めること。言葉は現実と結びついてこそ命が宿る。キングやハリポタシリーズは世界で最も読まれている英語小説でしょうけど、単に普遍を書いてるわけじゃない。ローカルなセンスやニュアンスを根底に持っているから「リアリティ」がある。クモの味を実際に知ってこそ、クモを「リアルに」描写できる、ということですかね。村上春樹よしもとばななも例外ではないと思う。
つまり水村さんはWEB2.0や集合知とすら言わなくなった梅田さんと対談するんではなく、町田康と対談すべきだったということ。

はっきり言って53万倍は面白いと思いますよ。日本語の可能性はまだまだ深い。
ああ、あと最近読んだのでは舞城王太郎もよかったなぁ。
煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)

リズム感がいいっすね〜。村上龍よりも自然で好きです。
それと漫画ね。これも言葉との関係は切っても切り離せない。いろいろと紹介エントリがあったけど、ぼくが最近読んだのはここら。
『坊っちゃん』の時代 (双葉文庫)

『坊っちゃん』の時代 (双葉文庫)

面白すぎます。近代化にきしむ日本。失われていくニュアンスを惜しむ漱石。そのダメ人間っぷり。確かにこの辺りの感じ、今とすごく似ています。
夢幻紳士 逢魔篇

夢幻紳士 逢魔篇

趣味丸出しですが、これ最高。久しぶりに鳥肌の立ったマンガです。「幻想篇」からの連作なので出来ればそちらを読んでからがいいのですが、特に素晴らしいのが二作目にあたるこの「逢魔篇」。艶かしく、残酷で、かつポップ。絵金の精神を見事に継承しているといえましょう。
というわけで、日本語を亡ぼしたくなければ日本の現実を多様で面白いものにしていくこと。エリートが一方向へ誘導するのではなく、日本という風土の上でいろいろな人がいろいろな楽しみを見つけて育て生活していくこと。漱石をいくら読ませても、今の現実に結びつかなくては日本語は元気になりません。