ペンと剣にまつわる4つのルール

精神分析家でもありませんし、人の内面を探るのはあんまり好きじゃないので、「彼」についての素人分析はやめておきます。そこには歴史の積み重ねがあったとしかいえない。
気になったのはこちらの話。
「加藤の乱」を平成の血盟団事件にしないために
加藤の乱」という呼び方はどうかと思うのだけれど、この事件が結果的に「剣」の役割を果たしたのは否定しようがないでしょう。
mkusunokさんは良心的に「それでもペンが強い」ことを主張なさっていますが、ペンと剣の関係は単純にどっちが強い、というものではないし、どっちも必要、という以上に複雑です。
思いつくままに、ペンと剣の関係について4つばかり挙げてみましょう。

1.ペンと剣が直接戦えば、剣が勝つ
2.お互いが同等の剣を持っている時、ペンに優れたものが勝つ
3.剣同士の戦いはゼロサムかマイナスサムだが、ペン同士の戦いはプラスサムになりうる
4.したがって剣で戦う社会より、ペンで戦う社会の方が豊かになる

この場合の「剣」は暴力に限らず、権力を含むなんらかの強制力を意味します。「ペン」はもちろん言論ですね。
「ペンは剣より強い」という言葉自体は19世紀イギリスのリットンによる戯曲「リシュリュー」が出典といわれているようです。興味深いことに、原典ではこの言葉の前に「偉大なる者の統治の下では」という前置きがあるとのこと。
すなわち、お互いに権力という剣が拮抗している場合にのみ言論が機能するということですね。
最近読んで面白かった作品に嘘喰い 1 (ヤングジャンプコミックス)があります。ジョジョのダービー戦やカイジのようなギャンブル・心理戦ものの傑作ですが、興味深いのは必ず「暴力という基盤」が描かれる点。
いかにギャンブルに強かろうと、心理戦に打ち勝とうと、それを裏付ける「強制力」が無ければ何の意味もない、ということが繰り返し表現されます。もちろんマンガ的で大仰な描写ではありますが。考えてみれば、ジョジョのダービー戦でもまず強制力の拮抗が描かれてましたよね。
言うまでもないことですが、ペンと剣でガチンコすれば、剣が勝つに決まっています(例外:ゴルゴがペンを持った場合)。
ペンが意味を持つのは、お互いに剣を持っている時。剣同士で戦えば、勝ったとしても傷を負います。よくてゼロサム、多くはマイナスサムです。
一方ペンの戦いであれば、交渉次第ではwin-winすらあり得る。
こうして、剣の裏づけを持ちつつもペンで戦う社会、すなわち民主主義が成功を収めたのが20世紀のお話というわけです。
民主主義のシステムには「偉大な統治者」はいませんが、その代わり常に「剣」による勢力均衡を目指して作られています。
憲法三権分立文民統制。団体交渉権。独占禁止法
「剣の均衡」が無いところに、「ペン」の力はあり得ません。インフラの存在に慣れすぎると、それが作られたものであることを忘れてしまう、というやつです。
日雇い派遣、あるいは多くの労働問題の根底には、「剣の均衡」の崩壊があるのです。
もちろん暴力、しかも無差別テロにいたってはプラスサムのあり得ない最悪の「剣」だといえます。
しかしそれでも「ペンは剣より強い」というのは一種の諧謔なのであって、そのまま真に受けるべきではない。
偉大な統治者なき民主主義を生きるにあたって今本当に考えるべきは、プラスサムにつながる「剣の均衡」をいかに取り戻すか、という問題だと思います。


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日本で暴動起きてるんですけど