クオリア・ビジネスと意識の謎

機械は意識を持つか。コンピューターは意識を持つか。インターネットは意識を持つか。
我求む故に我あり
意識の謎を解いてみました
結論から言うと、茂木さんの「クオリア」はbuzzwordWeb2.0なんかと似たようなもんでしょう。
例えば、科学者が被験者の脳のどっかをいじると「が見えた」とします。やた、ここが「赤のクオリアを司る脳」だ?
しかし、厳密にいうとこれは
被験者が「赤が見えた」と表明した
ということであって、その「」が科学者の見ている「」と同じであるかは依然不明です。
じゃあ思考実験として、草薙素子よろしく「電脳ハック」できるようになったとします。
他人の目から見る世界。おお、やっぱり「」は「赤い」!
でもよく考えると、これだって結局自分の「主観」からの観察
つまり、「自分」というものが存在する限り「クオリア」の謎は解けない??
じゃあ自分がいなければ。・・・科学なんかできませんね。
パラドクス!
ただ実はこんなことは業界の人間にとっては常識で、ああ、また茂木さんね。商売頑張って、ってなところが本音。
ある意味ニセ科学すれすれだし、下手をすると「脳科学の否定」につながるキナ臭い分野なんですが、今のところ科学者はスルー力を発揮しています。
一つには実害がないし、一つには茂木さんはうまく本質的なところを避けてくれるので、むしろ脳科学振興になってありがたい。
そんなとこでしょうか。
このように、究極的な意味においては「クオリア」を科学で明らかにすることはできないのですが、だからすることが全くない、というわけでもありません。
例えば量子力学だって、不確定性原理によって「究極的には分からない」ことが明らかになっているにも関わらず、いまだ研究は続いています。
つまり現在のアプローチは、「完璧な地図は作れないけども、使える地図くらいは作れるんじゃないか」、という方針なのです。
その意味で、現在の意識研究は
「意識から生まれる(であろう)能力や現象」
に注目が集まっているといえるでしょう。
例えば、創造性。論理からは、創造性は生まれません。何故ならば、純粋な論理とはすなわちトートロジーだからです。つまるところはA=A。ある数式をいかに変形しようが、それ以上のものにはなりません。芸術を持ち出さなくとも、人間の活動にはトートロジーでは生み出せないものが沢山あります。科学ですらそうです。
ただし、そもそも現実世界に論理なんてあるのか、という考えもあります。論理だって人間が捻り出した概念じゃないの?
なんかどんどんお家が遠くなる感じですねぇ。
個人的な推測では、人間の意識や創造性の根源は高度な「抽象能力」あるいは「モデリング能力」なのではないかと感じています*1
例えば「私」「自意識」あるいは「内観」。
これらはあくまでも「自分というモデル」を観ているのであって、「自分」そのものではありません。「自分」は「自分の全て」をモニタリングすることはできません。「自分」が「自分」を観ていると考えると、ご存知「無限退行」が生じてしまいます。自分を見ている自分を見ている自分を見ている自分・・・。自分は自分を観ることはできない。観えるのは「自分というモデル」だけだ、とすると、わりかしすっきりするかなぁと。
んで論理というのも、人間が生み出した一種のモデリング様式なのではないかと。
もちろんだから無意味というわけではなく、それがある程度世界と一致したからこそ人間や科学が繁栄できたわけですが。
結局のところ「クオリアはどんづまりだけど、意識の謎はまだまだあるよ」てな感じでしょうか。
ああ、あと私はシャンプーは無添加石鹸もの、リンスはプロカリテ。これが一番体質にあっとります。