いじめと自殺について徒然

いじめと復讐
いじめ自殺 死に急いだら負けになる
いじめの定義,私説

連日の自殺報道。気が滅入りますね。まとまりはないけれど、書いておこうかと思います。
マスコミの報道がいじめによる自殺を加速させてる、という認識は正しいと思います。その一方で、自殺する方の「自殺くらいやらかさないと社会は動かない」という認識も残念ながら正しいんですよね。この点が全く気が滅入るところですが。


・自殺連鎖に対して
自殺を試みる方はよほど衝動的でない限り、これからの苦痛と幸福を天秤にかけて、苦痛が大きいと見積もるからそういう選択をするわけです。
特に、今自殺すれば「学生の自殺連鎖という物語」にのって、世の中に少しでも爪あとを残せる。ある種の「殉死」です。ならば変わり映えのしない世の中でだらだらと苦しみ続けるよりはマシだと。これに対して、生き続けていればとにかく「可能性」はあるんだよ、と諭すのは論理的には正しいのでしょうけど、多分効果はありません*1
つまり将来の不確実な利益より、今確定できる利益を、という行動経済学的状況なわけです。
これ(連鎖)を打開するには二つの方法があります。
1. 物語を打ち切りにするか
2. 物語を次の段階に進めるか
ですね。
1.はつまり、報道をやめる。皆が忘れる。「自殺してももう世の中は反応しない」。伝家の宝刀、先送りですね。多分連鎖自体は止まるでしょうが、いつかどこかにしわ寄せが来るでしょう。
2.は困難ですが、進むべき道です。こちらは「自殺しなくても世の中は動き出している」。
この場合の「動く」は、単に騒いだり議論したりではなく、実務レベルで「動く」ということです。


・対症療法として
「動く」ですが、とにかく具体性が必要だと思います。抽象論をやってる限り「物語」は進みません。
まず、「準犯罪行為としてのいじめ」を規定する「具体的な行為」を列挙したガイドラインを作成すべきです。
文科省にしろ、警察庁にしろ、曖昧な定義しか挙げていません。それでは誤魔化したもん勝ちなのは自明の理。少々広くても構わないので、「いじめに該当する可能性のある行為」を相当数、具体的に並べ立てるのです。
「手、足、物品などを用いて相手の身体を打ったり、突いたりする行為」
「相手の身体を拘束する行為」
「相手の身体や物品を汚す行為」
「物品、金銭を奪う行為」
「侮辱的な意味のある呼称を用いる行為」
などなど。
もちろんそれらは全て「いじめ」なわけではなく、あくまで「いじめの可能性のある行為」です。こういったガイドラインを教員、生徒、親に配布します。
そしてこれらの行為について、報告と記録の義務および権利を制定します。
学校だけではなく、対応する三者機関が必要でしょう。場合によっては学校の頭越しに報告しても構わないとします。メールを使ってもいいでしょう。
これらのうち特に悪質であったり、頻発するものについては機関の調停員が直接動くものとします。
やはり肝心なのは明るみに出す仕組み、そして記録を残すことだと思います。
相当なコストと手間がかかりますが、「美しい国」ならコレくらいはやっても構わないのではないでしょうか。


・長期的に
もちろんゼロにはならないでしょう。犯罪と同様です。しかし減らす努力はしなくてはならない。
文化的側面に関しては、多くの人がいろいろおっしゃってますね。多分どれも一理あるのでしょう。日本人の集団主義、空気主義、などなど。
私が一つ言うとすれば、「いじめるのはカッコ悪い」という認識を広めようとするより、「いじめられるのはカッコ悪い」というイメージをなくすことが必要だと思います。
「いじめるのはカッコ悪い」なら、見つからなければいいだけです。それよりも、「いじめられるのはカッコ悪い」というイメージによって被害者が事態を隠してしまうことの方が問題なのです。
制度面では上記のような記録制度に加え、そもそも教員とその事務的サポートの大幅拡充が必要でしょう。安倍さんのお好きなバウチャーもまずいじめや不登校の場合に限定的に用いればよいと思います。水のどうしても合わない場合の脱出に使えますからね*2



・個人的な話
「いじめ」らしきモノは私にも体験があります。小学校ですが、転校の際にいろいろやられましたね。たまたま私は男性であり、その時成長期であり、割と分かりやすい暴力だったため、私が暴力的に反撃することで一応の収束はみました。ただやはり、事態が本当に明るみに出たといえるのはこの「ケンカ」の時です。それまでは「なんとなく」な雰囲気はあっても、誰も動こうとはしませんでした。私自身も、ただやられていることを親に告げるのは嫌でしたしね。私はたまたま腕力がついていましたのでそうなりましたが、どうしても逃げ道がなければ、「ケンカ」が「自殺」になってもおかしくはないと感じます。あるいは、度を越して「他殺」に至る場合もあるでしょう。
実にくだらない。くだらないし、もったいない。しかし、井戸の底から見える空が全てな時もあるのです。
まずは、井戸に横穴を掘ることが必要です。
そこから外に出れば、大きな空が見えるはずです。
あるいは、外に出ても高層ビルばかり立ち並び、井戸の底と変わりないかもしれない。
しかし人間はその風景を変えることもできるのです。

追記
自殺予告手紙:「生きていくのがつらい」……手紙全文
気休めや抽象論はもうお腹いっぱい。
関連:いじめが自殺につながる日本の「空気」
教育基本法にはぜんぜん関係ないですが、いじめについて

*1:確かに学校から見える世界など井戸から見る空なのですが、とにかくそこにいる現在、それしか見えないのです。しかもそれほど的外れでない。

*2:ただ、いきなり全体に使うのは微妙ですね。現構想のバウチャーは競争的環境の導入を図るものですが、現在の教育現場はそもそも資源が圧倒的に足りません。資源の足らない状態で無理に競争させるとどうなるか。少なくともパイが大きくなることはないでしょう