死を知ることは自分を知ること

不死の本当の意味
一応生命科学の末席に身を置く者として軽く指摘をば。

実際、細胞レベルでは不死はすでにいくらでも見つかっている。一番有名なところではHeLa細胞がある。元々のこの細胞を持っていた人は死んでしまったが、この細胞は全世界の研究所で生きている。この細胞、実はがん細胞だ。

せっかく「死とはなにか」といっておきながら、やっぱり「死」の概念が曖昧ですね。
確かに「HeLa細胞」は今でも研究室で生きています。しかしながら、それは既に何十代にも渡って植え継がれてきた細胞の「子孫」であって、もともとHenrietta Lacksさんに息づいていた細胞ではありません。
通常の細胞は分裂回数に限度があり、ヘイフリック限界と呼ばれています。いわゆる「不死化細胞」というのはその分裂回数制限が無くなったという意味であって、特定の細胞が半永久的に生きているわけではないのです。


では、人が恐れる「死」とはそもそもなんであるのか。
一般に、動物は「死」という概念を持たないといいます。まあ本当かどうかは分かりませんが、確かに「死」が高度な抽象概念であることは分かります。
また、フィクションにおいては、生きてはいても「自分が自分でなくなってしまうこと」が死と同等に恐ろしいものとして描かれることが多々あります。
この辺りから考えると、人が恐れる「死」とは「自分」という継続性が失われることなのでしょう。
ふむ。
では、「自分」とは何か。
それが分からないのに、「死」を恐れても仕方ありませんよね。
あるいは逆に、それが失われることが最大の恐怖である「何か」こそが「自分」を規定するものである、ともいえるでしょう*1
あなたが一番失いたくないものは何ですか?


ところで、現在地上で最長の寿命を誇るのはオーストラリアのキングス・ロマティアという植物だそうです。少なくとも4万3千年生きている個体だということです。
これほど生きると、体内の分子はどれだけ入れ替わったか分かりませんね。
唯一よく保たれてるのが遺伝子配列で、個体の同一性を計るにはこれを使うしかありません。
では、人間はどうか。自分の細胞がHelaのように培養液の中で遺伝子を保っていれば満足でしょうか。
多分違うでしょう。
ドーキンスいわく、人間はミームに生きる動物です。「自分」というのは、あらゆる「意味」や「感情」の総体からなるものです。
かといって、それは一枚板ではない。
一晩寝れば考えは変わり、ブログを読んでは思いを変える。
「一番失いたくないもの」ですら日々変化するでしょう。
その時々に、人は「死」んでいるのです。


た・だ・し。
個人的に言わせてもらうと、言語に表せる程度の「ミーム」などほんのごくごく一部だと思います。結局のところ、その唯一の肉体の持つ抽象化できない個別の感覚の総体が「自分」であって、それをそっくり残すことなどできはしないのです。
だからこそ、人は「共感」を求めるのでしょう。そこに一部でも「自分」の痕跡を残すために*2
追記
ちょいとネタバレ。「自分とは何か」についてとことん考えている作家といえば、やはりグレッグ・イーガンでしょう。イーガンの作品には度々、「自己の情報化による不死」が登場します。しかしながら、そうやって情報化された「自分」が元の「自分」と同一であるかについては、作中の解釈も常に揺れています。情報化するということは、抽象化するということ。抽象化するということは、「余分なモノを捨てる」ということです。では、果たして何が「余分なモノ」なのか? イーガンの小説は常にそれを問うているのです。


ちなみに、老化遺伝子について。
他人のために死ぬと言うこと

このように考えると、そもそも、「老化による死」の遺伝子など、発生したとしても、すぐに自然消滅してしまうものだということが分かる。

ここは微妙なところです。
ハエや線虫においては寿命が2倍以上に伸びる「寿命変異体」と呼ばれるミュータントが発見されています。これらの変異体の多くは、ある遺伝子の機能が「壊れる」ことで生まれているのです。
つまりその遺伝子は「寿命を制限している」ということができます。
ただし、遺伝子の機能は一つでないため、やっぱり一筋縄ではいかないのですが。
現在の生命科学での主流は「まさに老化を引き起こす遺伝子、は無さそうだが、その進行を調節している遺伝子はありそうだ」といったところでしょうか。

*1:死が最大の恐怖ならば、ですが。

*2:で、そもそもなぜ人は「自分」を残したがるのか? それは定番のお答え。「そういう人が残ってきたから」。別に残さなきゃならないわけではありませんので念のため。