科学批評にはなにが必要か?

5号館さんからTBをいただいた科学批評家の話題について少々。
もっともっとたくさんの科学批評家が必要だ
『批評とはなにか』ってことを考えていたら、なんだかちょうどいくつかの記事が目に留まったのでとりあえず紹介します。、
finalventさんが小林秀雄の批評論を紹介した
批評トハ
イースト氏が自らの批評?について語った
批評について
どちらも批評を「作品」として捉えていて、むろん表現には全て作品としての側面が(科学論文ですら!)あるわけですから、それ自体は結構なことだと思います。
ただイースト氏においては対象や正確さはどうでもいい、というところまでイってしまっているようで、まあエンタメ分野においてはありなのかもしれませんが、科学や社会をあつかう際にこれではもはや批評と呼ぶに値しないでしょう。
わたしなりに批評というものを定義するなら、「対象を文脈の中に位置づけること」だと考えます。
世の中には多種多様な「文脈」が存在しますから、対象をどの文脈にどのように配置するのか、ということが批評の作品性であり、批評家の個性になるのだと思います。もちろんレトリックは重要ですが、だからといってなんでもアリ、ということにはなりません。文脈の方向性はともかく、事実の把握に信頼性がなくては優れた批評とはいえないでしょう。
ですから科学批評をするのであれば、ある程度の科学知識、科学的思考は当然必要です。大学院で学んだ人はその主な担い手になることが期待されます。
しかし、文脈に中に位置づける、ということは専門知識だけでできることではありません。
もちろん専門には専門の文脈があり、論文やレビューの中である意味すでに批評が行われているともいえます。とはいえ専門の事柄をその専門の文脈で語るのは、批評というより「解説」というべきでしょう。
今必要とされている科学批評は、科学の知識や動きを専門以外の「文脈」に乗せていくことではないかと思います。
そのためには専門や科学内部の文脈に通じているだけでは不足で、外部の多様な文脈を把握、理解し、科学の事柄をそこにうまく配置していくスキルが必要です。
一般的にこういった活動は科学雑誌や学術誌、科学ジャーナリズムをメインフィールドになされると思いますが、残念ながら日本ではそういう場がほとんどありません。
おそらくこれらが育たない理由は、ある事柄を多様な文脈に乗せていくという訓練そのものの不足によるのではないかと感じています。もちろん、なんでもかんでも乗せればいい、ということでもありません。
とりあえず、複雑巨大化した現代科学の場合、

  • 専門分野の文脈:その分野ではなにが問題で、どう解かれようとしているのか
  • 科学史的文脈:科学の歴史の中で、その発見はどういう意味を持つのか、持たないのか
  • 政治的文脈:その研究は誰によるどういう経緯や目的のもとになされたのか
  • 経済的文脈:どういうコストのもとに、どういう利益のためになされたのか
  • 社会的文脈:人々の生活や認識に対してどのような影響を及ぼすのか
  • 文化的文脈:人々の価値観や倫理観とどのように関わってくるのか

あたりは押さえておかなくてはならないでしょうね。大変だなあ。
こうなってくると、最低でもセミプロクラスの人がいないとまとまらないんじゃないでしょうか。日曜批評家もいいと思いますが、それで収まるには現代科学は巨大すぎます。
そもそも科学技術批評センターとか、あるんでしたっけ。この辺かな。社会技術研究開発センター
でもなんだかちょっと違うような。「文脈に乗せる」ってのは現状解説だけではなくて、「起源」と「目的」をつかんでおかなくちゃならないんですよ。

こちらも面白いです。英語版Wikipediaの Critique の項目が面白い